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- 2016.08.15 Monday
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カドミウムは人体に体重1kgあたり約0.7mg含まれると見積もられている。カドミウムは多くの生物種において蓄積性がみられ、ヒトでは体内に約30年間残留すると言われている。したがって、一度カドミウムに暴露されると、長期間その毒性にさらされる危険性がある。さらに、亜鉛と同族元素であるために、生体内での挙動も類似しており、カドミウム除去の際に、生体に必須な亜鉛をも除去してしまう可能性がある。
カドミウムの毒性については、骨や関節が脆弱となるイタイイタイ病が大きな社会問題となった。さらに、慢性毒性では、肺気腫、腎障害、蛋白尿が見られる。腎障害では糸球体ではなく、尿細管が障害を受けると言われている。また、カドミウムは発ガン性物質としても知られている。これらの毒性の一部は、亜鉛と類似の生体内挙動を示すことから、亜鉛含有酵素のはたらきを乱すことによるものと考えられる。
これらの毒性に対する生体側の防御として、金属結合性タンパク質のメタロチオネインが誘導され、カドミウムを分子内に取り込み毒性を軽減している。
東西冷戦がピークにあった一九五〇年代から七〇年代前半にかけて、ソ連、中国、北朝鮮をターゲットにした核出撃基地として機能していた米軍三沢基地。有事には「コア」と呼ばれる核物質が米軍政下の沖縄県・嘉手納基地から運び込まれ、待機する戦闘爆撃機の核爆弾に装着する計画になっていたが、そのコアを保管していた「核貯蔵庫」とみられる施設が六日までに、東奥日報社が入手した航空写真と当時の日本人軍属の証言などからほぼ明らかになった。軍事機密の厚いベールに閉ざされていた「核貯蔵庫」の具体的な位置が特定されたのは初めて。
「核貯蔵庫」とみられる施設が確認できたのは、嘉手納基地の滑走路東端に隣接する丘陵地帯の一画。飛行場周辺には嘉手納弾薬庫と呼ばれる米軍用地が広がるが、「核貯蔵庫」は滑走路から県道74号線(七二年の沖縄返還以前は軍用16号線)を隔てただけの弾薬庫入り口部分にあった。
「核貯蔵庫」特定の決め手は、(1)外部から侵入しづらいように二重フェンスで囲まれている(2)出入り口を一カ所に制限している(3)夜間警戒用のライトが外側を向いている(4)精密機器の劣化を防ぐために空調設備が設けられていた(5)核兵器専門の整備部隊(第七戦術補給中隊、のちの第四〇〇弾薬整備中隊)が管理していた−など米軍が核施設のために規定したマニュアルとぴったり符合する点だ。
また当時、同基地内の技術中隊の軍属として「核貯蔵庫」に出入りしていた友寄(ともよせ)朝英さん(65)=沖縄県宜野湾市在住=は「広大な嘉手納弾薬庫の中で、その一画だけ、白い作業服(核防護服)を着た人間が出入りしていた。施設本体は地下六階にあったが、入る際には胸に(放射線の被ばくの有無を確認する)フィルムバッジを着けることを義務付けられた」と、核にかかわる特別な場所であったことを証言する。
さらに、友寄さんは「その一画は憲兵ですら入ることができない特殊な地域で、警備のものものしさは尋常ではなかった。だから、(核貯蔵庫であることは)仲間うちで暗黙の了解だった」と、核貯蔵庫の存在が基地内で“周知の事実”であったことを説明する。
友寄さんが軍属として同基地に勤務していたのは六〇年代の約四年間。主に空調設備の保守管理に当たり、「核貯蔵庫」には年に四回の定期検査時に出入りしていた。
東奥日報社のこれまでの調査によると、「核貯蔵庫」内のコアは有事の際、核戦争計画であるSIOP(単一統合作戦計画)に従って貯蔵庫から引き出され、C130輸送機に搭載。三沢のほか、入間(埼玉県)、板付(福岡県)など本土の核攻撃基地に運ばれることになっていた。
その一方で、嘉手納基地からも核搭載の戦闘爆撃機が出撃することになっていた。「核貯蔵庫」には六〇年代に最大で百個以上のコアが保管されていたとみられる。
核問題研究の第一人者で、七〇年代に同基地の調査を行った新原昭治さん(東京都東村山市在住)は「施設の状況からみて、ここが『核貯蔵庫』に間違いないだろう」とした上で、「核貯蔵庫」が弾薬庫の中でも飛行場に極めて近い場所に置かれた点については「核戦争計画は分刻みの行動が求められたので、輸送機への積み込みと警備がしやすく、しかも司令部のコントロールが利きやすい場所という観点から選ばれたのでは」と話す。
◇
解説/捨て切れぬ再使用の疑念
「核貯蔵庫」の存在は、沖縄が核抜き返還される一九七二年まで、沖縄県民はもちろん日本国民の誰もが知る事実でありながら、詳細については謎に包まれてきた。
その謎に迫る手がかりはただ一つ。飛行場の北側に見渡す限り広がる嘉手納弾薬庫、そこのどこかだろう−というあいまいな推測だけだった。
「核貯蔵庫」の謎に最も肉薄したのが返還直前の七一年だった。
あるカメラマンが、飛行場東端の第18ゲートから嘉手納弾薬庫に小型トラックで運ばれる核爆弾(B61と呼ばれる型)の撮影に成功したのだ。しかし、その核爆弾が大事にしまい込まれた先、つまり「核貯蔵庫」までは特定するに至らなかった。
それから三分の一世紀。ついに「核貯蔵庫」の封印が解かれた。皮肉にも、研究者やマスコミが血まなこになって追っていた「核貯蔵庫」は、飛行場とは道一つ(県道74号線、当時は軍用16号線)隔てただけの、嘉手納弾薬庫の入り口部分にあった。
核爆弾が撮影された場所とはまさに目と鼻の先だったのだ。
そして今…。飛行場と「核貯蔵庫」を結んでいたかつての“核の道”は、外部の目を遮るかのように地下道へと姿を変えた。「核貯蔵庫」の中も核抜き返還以後はからっぽになったといわれる。「しかし」と、核問題研究家の新原さんは警告することを忘れない。
「米国が先制核攻撃を国家戦略の一つとして手放さない以上、かつての『核貯蔵庫』はいつでも再使用できるよう維持されているのではないか」(編集委員・斉藤光政)
引用元:https://www.toonippo.co.jp/kikaku/misawa/new2005/0207.html
三 核基地の疑惑
既に述べたように、本施設は第四〇〇弾薬整備中隊が管理している。復帰前、米空軍の四種類の戦術核爆弾すべての種類を貯蔵管理する任務を負っていて、本施設において核兵器や毒ガス兵器を、貯蔵管理していた。その毒ガスについては、一九六九年の毒ガス漏事故がきっかけで撤去運動が起こり、一九七一年九月までにハワイ近くのジョンストン島に移され、撤去されたことになっている。しかし、現在、同施設に毒ガスは保存されていないとの確証はない。
核兵器についても、日米の合意により、復帰までの間に同施設から撤去されたことになっている。しかし、本施設に核兵器が貯蔵され、あるいは持ち込まれている疑惑は、依然として消えていない。
アメリカの核政策は、「肯定も否定もしない」ことを基本としている。しかし、一九八一年五月、前述の第四〇〇弾薬整備中隊の「週間整備計画」が明らかにされ、その中で、復帰後の一九七五年二月三日から七月にかけて、B61核爆弾が嘉手納飛行場格納庫から嘉手納弾薬庫地区の整備作業場3X06に運び込まれ補修作業が実施されたことが明記されていることや、核兵器の重大事故を想定した折れた矢 (ブロークン・アロー)訓練や、核兵器の起爆を可能にするPAL訓練、核搭載機のハイジャック防止訓練等が行われていることは、核兵器の存在あるいは持ち込みの疑惑の根拠づけとなっている。
本施設内には、米国防総省の「核兵器の保安基準」に基づいて構築されたイルグー(履土)式弾薬庫が数多く並んでおり、核生物・化学兵器がこのタイプの弾薬庫に貯蔵されていることからみても、この施設に核兵器が存する疑いは濃厚となっている。